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This photo of my photoblog was taken in Okayama. 写真ブログの写真は岡山で撮影。

入江 泰吉(いりえ たいきち 1905年(明治38年)11月5日 - 1992年(平成4年)1月16日)は日本の写真家。大和路の風景や仏像などの写真を撮り続けた。経歴1905年、東大寺の旧境内地である奈良市片原町に生まれる。父は古美術の鑑定・修理を行っていた。上司海雲(かみつかさかいうん)や橋本聖準など後の東大寺の僧侶たちとは幼なじみである。奈良女子高等師範学校付属小学校高等科を卒業。はじめは画家を志したが断念。兄からベスト・コダック・カメラを譲ってもらい、写真に目覚める。大阪の上田貞治郎(写真研究家・上田竹翁 の兄)が興した上田写真機店に就職し、やがて独立。写真機材を扱う「光芸社」を経営しながら写真の腕を磨いた。記録映画の撮影や漫画映画の製作も経験している。文楽などを撮影し高い評価を受けたが、昭和20年(1945年)大阪大空襲で家を消失し、奈良に戻り下宿暮らしをする。放心状態を埋めるように亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」を手に古寺を遍歴。同年11月下旬、たまたま東大寺法華堂の四天王像が疎開先から帰還するのを目撃した。その付き添いの人や堂守の人たちの話に、戦勝国のアメリカが賠償として日本の古美術を持ち帰るという噂を耳にする。愕然となった入江は奈良の仏像を写真で記録することを決意する。大阪の闇市で機材を揃え、戒壇院の四天王像から撮りはじめた。翌年、幼なじみの上司海雲東大寺観音院住職と再会。その紹介で志賀直哉、会津八一、小林秀雄、亀井勝一郎、杉本健吉、須田剋太らの知遇を得る。6月、志賀を中心に「天平の会」が発足し、入江も参加。特に洋画家・杉本健吉とは終生の交友となる。1946年ごろから東大寺修二会を毎年取材するようになり、30年以上撮り続けた。こうして戦後は大和路の風景や仏像などの写真を撮り続けた。入江ははじめモノクロ写真にこだわり、はじめてカラー写真を撮ったのは1957年で、カラー写真が主体と成ったのは1963年ごろからである。1960年浪速短期大学教授入江の風景写真には、雨や霧や雲などが効果的に写し込まれることが多く、杉本健吉にミスター・ウエット・イリエと評された。また、被写体に向き合い、納得いくまでシャッターを切らないことでも知られる。土門拳が非常に多くシャッターを切るのと対照的である。昭和51年(1976年)「古色大和路」「万葉大和路」「花大和」の三部作で菊池寛賞を受賞。また、毎日出版文化賞、仏教伝道文化賞等を受賞。入江の死後設立された入江泰吉記念奈良市写真美術館には入江のすべての作品が所蔵されている。

戦地へ
1972年3月、ベトナム戦争が飛び火し、戦いが激化するカンボジアに入国、フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始。以後ベトナム戦争・カンボジア内戦を取材、アサヒグラフやワシントン・ポストなど国内外のマスコミで活躍し、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞する。カンボジア入国以後、共産主義勢力クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への一番乗りを目指しており、1973年11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身アンコールワットへ潜入するも、そのまま消息を絶つ。それから10年たった1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部に位置する、プラダック村にて遺体が発見され、両親によってその死亡が確認された。その後、ポル・ポト派により、処刑されていたことが判明した。彼の生きざまは書籍や舞台などになり、1999年には浅野忠信主演・五十嵐匠監督による映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』によって若者の間でブームとなった。また一ノ瀬の没後30年にあたる2003年には『地雷を踏んだらサヨウナラ』をプロデュースした奥山和由の制作、中島多圭子監督によるドキュメンタリー映画『TAIZO』も公開されている。現在、現地には村人が遺族の許可なしに勝手に建てた「墓」があり、旅行者から拝観料を巻き上げたり、エイチ・アイ・エスの日本語ガイドが一ノ瀬の写真を模写した絵をTシャツにして販売しているが、これらはもちろん非公認である。著作に『遥かなりわがアンコールワット』『地雷を踏んだらサヨウナラ』などがある

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