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This photo of my photoblog was taken in Okayama. 写真ブログの写真は岡山で撮影。

彼が渡米した時期のアメリカでは、メディアにおける映像の氾濫により現実が変容した状況が指摘され、「あるがままの世界」を写すというストレートフォトグラフィの失効やピクトリアリスムの再評価が主張されるなど、写真においてもモダニズムが問い直されポストモダニズムが勃興する時期だった。彼は構図や照明の計算により絵画的な画面を実現しピクトリアリスムに接近しているが、一方で「ポストモダン時代を経験したポストモダン以前のモダニスト」を自任するなどモダニズムの立場に立ち続けている彼は、写真には嘘をつかせないというモダニズムの倫理を守ろうとしている。また「真実らしさで満ちている世界で、写真が真実を写し出すことはない」としつつ、個人の存在を超えた時間の積み重なりや流れをとらえるためのコンセプトや方法を模索している。最初のシリーズの『ジオラマ』ではニューヨークのアメリカ自然史博物館の古生物や古代人を再現したジオラマを撮った。精巧なジオラマを本物に見えるよう注意深く撮ったシリーズは、「写真はいつでも真実を写す」と考えている観客には一瞬本物の動物や古代人を撮ったように見えてしまう。1999年からのシリーズ『ポートレイト』では偉人たちや有名人たちの蝋人形を、16世紀の絵画をほうふつさせる照明で撮影し、あたかも生きた本人を撮影したかのような作品に仕上げた。これらのシリーズは迫真性をもって撮りながらその写すものは偽物であるという一方で、時間を超えた存在を写すという主題にもつながっている。彼の作品シリーズは、厳密なコンセプトを立ててそれを実現するというコンセプチュアル・アートの影響のあるものである。『海景』のシリーズは「海を最初に見た人間はどのように感じたか」という問題提起を最初に立て、世界各地の海を撮影した。大判カメラですべて水平線が中央にくるように撮影された白黒写真のシリーズは、同じ構図を延々と繰り返し制作することにより個別の海という同一性を奪われる。闇の中の一本の和蝋燭が燃え尽きるまでを露光した『陰翳礼讃』は光の帯と影だけという写真の最小限のものだけを写し取った。『劇場』シリーズは映画を撮影したもので、アメリカ各地の古い劇場やドライブインを訪れ、映画上映中の時間フィルムを露光し、結果真っ白になったスクリーンとスクリーンに照らされた劇場内部が写った。時間の経過によって、映画という「嘘」が光に蒸発したさまが撮られている。『建築』では世界の記念碑的なモダニズム建築を、焦点を無限倍にして撮影し、夾雑物が取り除かれた建築の霊のような姿が撮られた。『関数模型』では、芸術的野心なく純粋な合理的思考を形にした模型を撮影している。

真言宗円照寺の住職の次男。新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立芝中学校・高等学校に入学。中学2年生の時、落語家に入門。最高の名人として知られる桂文楽 (8代目)(落語協会会長)の孫弟子となる。日本大学藝術学部写真学科及び東京綜合写真専門学校を卒業。写真家沢渡朔と同期。妻は元アイドル歌手の南沙織(本名=篠山明美)。俳優の篠山輝信は次男。在学中より新進写真家として頭角を現し、1961年にライトパブリシティに就職。APA賞等数々の賞を受賞。華々しいデビューを飾る。 初期の作品には『Death Valley』『Twins』『Nude』など傑作が多い。 ジョン・レノンのラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影は篠山の作品である。その作品数の多さ、ジャンルの多様さはヌードから歌舞伎まで他の写真家を遥かに凌ぐ。1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」は流行語になり[1]、その後の松田聖子ら芸能人や素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られるようになる。1978年に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになったことを契機として、1980年には篠山をメインにした写真雑誌『写楽』が創刊された。1978年から1997年にかけては『週刊朝日』の表紙写真を撮影。1980年に始まった『週刊朝日』表紙の女子大生シリーズからは、何人もの女優や女子アナウンサーを輩出している[3]。その他にも『週刊現代』の表紙写真や、月刊テレビ情報誌『B.L.T.』の表紙、及び巻頭グラビアを毎号担当。『B.L.T.』では被写体のヌードはないが、寝そべって、胸の谷間を見せるポーズなどほかの雑誌よりは露出度が高いグラビアを撮影している。デジタルカメラを用いて撮影した場合は、「シノヤマキシン」(2000年頃)「しのやまきしん」「digi_KISHIN」(2003年頃)と言う別名義を使用する時もある。時代の節目で、いつの時代も最良の時間と場所でカメラを構えている。女性を被写体とした多数のヌード写真を撮影している。1969年にカメラマンの沢渡朔、林宏樹らと全日本恥毛露出連盟ことゼンチロレンを結成して会長に就任。[4]1991年には女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、ヘアヌードブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残している。撮影したヌード写真については、女性の事務所サイドから写真の使用を止められた場合ネガを持ち帰り、自宅で保管する。後にその女性が、芸能界で所謂「落ち目」になったときに、秘蔵ヌードが見つかったことにして『今のヌード』と『昔のネガ』を持ち出し、その二つを一冊の写真集にして発売することがある(例:水沢アキ、杉田かおる)。 他人には脱ぐことを求めるが自分の妻南沙織のヌードは発表していない。篠山の企画はたいていの場合、スマートであるとともに、ヒットし(一般受けし)、絶大な人気を誇るため(ただし、写真作品1枚1枚の良し悪しによるというよりは、その企画(発想)自体が世の中に受けているという面は否定できない)、同業者やどちらかといえば熱心なまたはマニアックな写真ファンには反感を持たれることも多い。話題性のみを追求しているともとれるその作品制作の姿勢は、写真評論家や写真批評家による評価を拒絶するかのようであり、そのことから、日本写真史上で篠山を位置づけることには、大きな困難が伴なっている。常に「今」を感じ、時代と共に表現が変わり続けるという身軽なスタンス(時代の複写)の写真家である。定義付ける事が困難なのは、写真における大衆性がしばしば批判的に捉えられる日本の慣習によるものである。商業的なイメージのある反面、自身が落語家であるということから三遊亭圓生 (6代目)を長年撮り続けた。また歌舞伎にも手を広げ、5代目坂東玉三郎を30年以上撮り続け、文化的側面で非常に貴重な写真も数多く残している。近年は彼のみならず、17代目中村勘三郎や歌舞伎界の花形を撮り続けている。なお、自決直前の三島由紀夫を被写体とした写真集(『男の死』)は、当初公表される予定であったが、1970年の三島の自決事件の影響に加え、同じく被写体となっていた横尾忠則の反対により、未だ正式な刊行には至っていない。


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