This photo of my photoblog was taken in Tokyo.
写真ブログの写真は東京で撮影。
狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で、安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で、京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派は、幕府の御用絵師として、内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は、一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。
狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、明治期の日本画家。近代日本画の父。1828年下関の狩野派の絵師の家に生まれる。ほぼ同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。フェノロサと知り合った1882年、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。