This photo of my photoblog was taken in Tokyo.
写真ブログの写真は東京で撮影。
生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪わたり』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から多数の作品が発表され続け、何度も全集が刊行された。(主な作品は次項参照)広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自(父親の搾取者としての立場)と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。 また、作者の芸術の根底には幼い頃から親しんだ仏教の強い影響もある。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムや平和主義的側面が注目され、特に近年はエコロジー思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。賢治の作品にはコスモポリタン的な雰囲気があり、ナショナリズムやファシズム的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について国柱会の影響を考えるべきであるという見解も見られる。賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくなかった。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。
彫刻家の高村光雲の長男。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社に入り、『明星』に作品が掲載されるようになった。卒業後、研究科に進み、さらに西洋画科に再入学したがまもなく退学。岩村透の勧めで1906年に彫刻を学ぶため留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。1912年駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。 1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。 1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。智恵子の死後、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。 1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。五月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動だった。この小屋は現在も「高村山荘」の名前で保存されている。なお、国文学者の宮地裕は学生時代独居自炊していた光太郎に会ったことがある。1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。第2回読売文学賞を受賞。1952年、青森県より十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作する。この像は翌年完成した。1956年に結核のため死去。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。