This photo of my photoalbum was taken in Okayama.
近代美術館設立の構想は、L.P.ブリス女史、C.J.サリヴァン夫人およびJ.D.ロックフェラー2世夫人という3人の女性によって発案され、開館したのは1929年である。日本の時代区分でいえば昭和のごく初期に早くも前衛美術専門の美術館の設立が構想されていたことは注目される。開館第1回展は「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ展」であった。このことは、印象派の次の世代(ポスト印象派)にあたる画家の彼らが当時の「前衛」であり、20世紀以後の「現代美術」の最初の画家たちであったことを象徴している。第1回展の展示風景の記録写真を見れば、19世紀式のサロン風の展示ではなく、昨今の美術館にみられるような、ニュートラルな白い壁面(ホワイトキューブ)に絵画が掛けられているが、これも当時としては斬新であった。以後、建築や前衛美術についての意欲的な企画展を連発しながらいちはやく優品の収蔵を進めていった。とくに企画展に際して発表される諸論文や、個々の作家や作品を美術史の文脈の中に位置づけてゆく構想力は、全世界の同時代美術の見取り図や歴史、筋書きをこの美術館が全部書いているような錯覚すら起こさせる。それゆえ、MoMAが現代美術の価値を決定している現状に対する反発も美術家・美術関係者の間には少なからず存在する。また、建築、商品デザイン、ポスター、写真、映画など、美術館の収蔵芸術とはみなされていなかった新しい時代の表現までをも収蔵品に加え、常設・企画展示・上映などを行うことで、世界のグラフィックデザインの研究の中心としての地位をゆるぎないものにした。ここには、日本製の電気製品や家具、映画作品などもデザインの歴史に影響を与えた優れた作品として収蔵されている。2007年1月にはauのau design projectで生まれた、日本でのみ利用できる4機種の携帯電話が収蔵品に選定されたことで話題になった。戦後、1952年にはインターナショナル・プログラムを早くも発足。この機関はMoMAによって構成される「MoMAインターナショナル・カウンシル」が経済支援のネットワークを盤石にし、世界各国の美術館関係者と人的ネットワークを構築し交流するプログラムを定期的に設け、巡回の受け入れ先を確保し、コレクションの貸し出しで報酬を得る。これらは実に優れた交流機関であり、美術館経営に効果的な事業スキームを持つ。このような機関は世界においても例がないという。 MoMAの理事会には経済界で強力なリーダーシップを持ったロックフェラー家のような名士が名を多く連ねており、彼らは率先して資金調達を成し遂げる。 MoMAファミリーになることは世界の資産家において魅力的なことであり、一流のカルチャーリーダー、一流資産家であることの証しでもある。2005年の新館完成に伴い入場料が12ドルから20ドルへ値上げされ、これはニューヨーク市の美術館のなかでは最も高い入場料でもあり、MoMAがニューヨークにもたらす波及効果と共にさまざまな賛否両論を巻き起こした。なお、毎週金曜日の午後 4時以降は Target Friday と呼ばれ、入場料は無料になる。10万点以上の所蔵品を誇るMoMAは、近現代美術の殿堂として、活発な活動を続けている。
大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。第二次大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市にすぎなかった倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かった。大原孫三郎は1880年、親の代から紡績業を営む、倉敷の名家に生まれた。日本の児童福祉の先駆者であり、岡山孤児院の創設者である石井十次との出会いが大原の人生を変えたという。プロテスタント信者であった石井の影響で自らもプロテスタントに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院などを次々と設立した。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ。