in the shrine

This photo of my photoblog was taken in Okayama. 写真ブログの写真は岡山で撮影。

ポスト印象派の代表的画家である。様式的には抽象派に負う所が多いが、絶対主義・象徴主義的側面も多分にあり、何れの範疇にも含められる事がある。現在でこそ極めて高い評価を得ているが、不遇の生涯を送っており、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけであった。それでも生活していけたのは弟テオドール(通称テオ)の援助があった為である。1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれる。祖父、父共に牧師だった。性格は激しく、家族を含め、他人との交流に難を抱えていた。1869年から美術商として成功していた伯父の伝手でグーピル商会に勤め、熱心に働く。また1872年からは兄弟の中でも唯一気の合うテオドールと文通を始める。この文通は何度か途切れるが、20年に亘って続けられる。商会のロンドンやパリの支店に勤めるが、失恋により失意し、美術商への熱意を失う。あまりに悪い勤務態度の為、1876年に商会を退職させられる。牧師を目指し貧しい人々の為に、自らも貧民のような身形で献身的に活動を行うものの、あまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないとされ、1879年に伝道師の仮免許を剥奪される。暫く炭坑に留まり伝道の補助を行う。1880年に画家となる事を決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を始める。1881年に実家に戻り、両親と暮らし始める。自宅に画室を作り、27歳で画家となる。義理の従兄弟にあたる画家アントン・モーヴにも指導を受ける。ポール・ゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)が不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自らの左の耳朶(じだ)を切り取り、女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院する。1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃で自殺を図り(自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いた事や、腹部に銃創がある事から、不審者を恐れた住人に撃たれたと考える研究家もいる)、2日後に死亡した。37歳という短い生涯であった。死ぬ前日には弟に自らの芸術論等を滔滔(とうとう)と話していたという。

アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年10月30日 - 1899年1月29日)は、フランス生まれのイギリス人の画家。シスレーはパリ生まれで生涯の大半をフランスで過ごしたが、国籍はイギリスである。父親はパリで造花の輸出業をしていた。シスレーは1857年から1861年までロンドンで商売の修業をするが、1862年には画家を志望してパリに戻る。同年グレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、ルノワールらと知り合った。彼らとともに戸外で主に風景画を制作し、1874年の第1回印象派展にも出品している。1874年の7月から10月にかけてイギリスに滞在した後、フランスに戻り、セーヌ河流域のルーヴシエンヌ、マルリ=ル=ロワ、ヴヌ=ナドン、モレ=シュル=ロワン、レ・サブロンなどを転々として風景を描いた。1899年モレ=シュル=ロワンで没した。生前には彼の作品はあまり売れず、貧窮のうちに世を去ったという。シスレーの作品の大部分はパリ周辺の風景を題材にした穏やかな作風のもので、ルノワールやモネに比べて地味な存在であることは否めないが、ある意味ではもっとも典型的な印象派の画家といえる。

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